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わが街・豊橋わが故郷・東三河

春のぞみ 任をはたして 枯れ葉落つ

国道一号線沿いの豊橋警察署のそばに、春夏秋冬の草木が植えられた小さな憩いの場があります。 そこは、国道を往来する自動車の喧騒からしばし離れて、 故郷の代議士であった上村千一郎(うえむらせんいちろう)さんの銅像が東の空を見つめています。 銅像のそばにある記念碑には、上村さんのモットーであった 「五十年先を考えて木を植え、百年先を考えて人を育てる」の言葉が刻まれています。

私が高校卒業時に、祖父秀太郎(ひでたろう)の葬儀がありましたが、 この上村さんが「高津さんへ」と親しく呼びかけて、生前の祖父のことを しみじみと語っていたことが今でも記憶に残っています。 祖父と上村さんは、出身が同じ田原市で、成章(せいしょう)中学校では先輩と後輩の関係でした。 やがて、私の大学卒業時には、上村さんは不慮の事故で亡くなります。

そして、この両人の大先輩にあたるのが、故郷の豊川用水を着想して 完成に至らしめた近藤寿市郎(じゅいちろう)さんです。 この三人は、名前に「郎」がつくことより、私なりに「田原の三郎」と呼んでいます。 田原の三郎は、幾多の困難を乗り越えて、今の故郷を切り拓いて来たのだと思います。

この三郎を育てたのが、藩校成章館に由来する、成章中学校、現在の成章高校の気風だったのでしょう。 そして、この成章館を振興したのが、田原藩士であった渡辺崋山(かざん)です。 崋山は、当時の著名な儒学者であった伊藤鳳山(ほうざん)を江戸から召喚するなど 故郷の教育に尽力しました。 上村さんのモットーも、この崋山に由来するのだと想像します。

崋山が国家老に宛てた書簡では、内憂外患の世情を説明した後に、藩政の心構えを説いています。 「右の通りの世の中故(ゆえ)、田原は武を搆(こう)じ徳を敷(し)き、天地の間に独立致(いた)し、 掌大(しょうだい-手のひら程の大きさ)の地を百世に存し候(そうろう)様、御工夫第一也。 何でも徳にこれなくては危(あやう)し。」 キーワードは、「徳」であり、もう一つは「百」です。 崋山の八勿(はちぶつ)の訓戒には、 「眼前(がんぜん)の繰(く)り廻(まわ)しに、百年の計を忘する勿(なか)れ」とあります。 当社も創業より百年を迎えていますが、祖父の代には、当社事務所には崋山の「商人八訓」が掲げられていました。

一.先ず朝は、召使いより早く起きよ
ニ.十両の客より百文の客を大事にせよ
三.買手が気に入らず、返しにきたならば、売る時より丁寧にせよ
四.繁盛するに従って、ますます倹約せよ
五.小遣いは一文より記せ
六.開店のときを忘れるな
七.同商売が近所にできたら懇意を厚くして互いにつとめよ
八.出店を開いたら、三年は食糧を送れ


東の空をじっと見つめる上村さんの銅像

崋山は、好奇心が大変旺盛で、身分に関係なく一般庶民をはじめ、 さまざまな人に会っては見聞を広めて、崋山メモなるものに書き留めます。 そのメモは、積み上げると背丈に達するほどだったと言われています。 時には、人を自然をじっくり観察しては素描(そびょう)します。

もともとは、画家志望で、その筆は、 肖像画の「鷹見泉石(たかみせんせき)像」など国宝ともなる画を残しています。 そして、当時の国際情勢を学ぶため、蘭学者を召し抱えて、蘭学書を翻訳させます。 鎖国化の中でも、当時の海外の状況を冷静に客観的に分析して、 明日の日本のことを考察していました。

今のままでは、日本も植民地にされてしまう。 そのような危機感から、国防に並々ならぬ関心を持ち、西洋から学ぶ必要を感じていました。 ところが、その言説が時代の先を行き過ぎてしまったのか、 時の政変にも巻き込まれて、自宅蟄居(ちっきょ)を命ぜられます。 さらに、自分が生きていることで、藩主に責任が及ぶことを危惧して、 自らの命を絶つ道を選びます。

今日の成章高校そばの池ノ原屋敷の納屋で、崋山は自刃に至ります。 長男には遺書をしたためていました。 「餓死(うえしぬ)るとも二君に仕ふべからず」 その差出人欄の一筆は、通称の登(のぼり)より「不忠不孝之父 登」 崋山は、百年先を考えて事にのぞんでいたことを思うと、 崋山の最後の結末は、その子々孫々の我らに「道」を示すことも意図していたように思えて参ります。

豊川用水が完成した年に、私は生を受けました。その年は、ちょうど明治元年から百年に当たります。 崋山からバトンを受け継いだ明治生まれの三郎から、 今まさに我ら世代にバトンが引き継がれています。 そして、我ら世代は、そのバトンを次の世代に引き継ぐ義務があります。

平成24年師走