宗教改革と自由
今から500年前に、一人の修道士が、カトリック教会に異議を申し立てました。 それは、長い物に巻かれるのではなく、たった一人の個人がNOと告げて、自分の意思を明らかにした。 その意思こそが、自由のありかであり、日本国憲法の掲げる自由の源流がここにあるとも言えるでしょう。 やがて、思想家たちは、王政からの自由、保護国からの自由を人権と表現します。 それを論拠として、フランス革命やアメリカ独立戦争が勃発。 この自由を求めて、今日に至るまで、あまりにも多くの血が流されてきました。 その点で、我が国もまた、日清があり日露があり、そして先の戦争がありました。 ところが、今の時代は、そのような歴史に無関心であり、自由を履き違えて、放縦と解釈してしまう。 拉致被害者の家族が米国大統領と面会して、こんな言葉を残しています。 「これからは日本政府が主導的に解決に向けて歩みを早めてほしい。」 500年前の修道士のごとく、黙って従属するのではなく、自分の意思を明らかにする。 それが、自由を標榜する誇り高き我が国日本です。
2017/11/09





